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日出町は美しい山と海、そして城下町としての歴史を持つ町です。
その魅力的なポイントをご紹介いたしましょう。
名所・旧趾
暘谷城趾
慶長6年(1601年)初代藩主木下延俊侯が姫路から移封入国後、築城にかかり、翌年完成しました。築城にあたっての綱張り(設計)は当時中津藩主であった義兄細川忠興侯(延俊夫人加賀の方は忠興の妹)が行いました。当時、三層の天守閣は別府湾に臨む一角に築かれ、大規模ではありませんが調和のとれた美しい城だったといわれています。現在その姿は石垣を残すのみとなりましたが、わずかに隅櫓の一つを町内東仁王地区に見ることができます。
「暘谷城」の名の由来
日出城は青柳城、浮津城とも呼ばれましたが、後に暘谷城と呼ばれています。その名は、3代藩主俊長侯が「日出」を「暘谷」にあてたとも、中国古書淮南子の「日は暘谷より出でて咸池に浴す」によったともいわれています。
城下公園(遊歩道)
本丸下の海岸は通称「城下海岸」と呼ばれ、有名な「城下かれい」の名の由来となっています。また、高浜虚子の「海中に真清水湧きて魚育つ」の句碑もここにあります。前方に高崎山を望む別府湾の眺望は絶景で、別府八景、大分百景の一つに数えられています。
致道館(日出藩校)
安政5年(1858年)15代藩主俊程侯が開校しました。木造二階建て、門を含め家屋全体が旧態のままであり、現存する県下唯一の藩校です。
開校当時の通達によると学問を修めるだけでなく、礼節、道徳を尊重する人間づくりが行われていたことがうかがわれます。また、16代俊愿侯のとき、算術、兵学、洋学(オランダ語)の三科も加えられました。
明治4年(1871年)の廃藩まで続きました。昭和26年(1951年)日出中学校の開設に伴い、解体修復の後二の丸の現地に移転しました。
日出藩の学問は3代俊長侯より始まります。俊長侯は儒学者人見竹洞に学び、藩士にも学問を奨励しました。そのため日出藩では学問を尊ぶ気風が培われてきました。県史趾に指定されています。
松屋寺
慶長8年(1603年)日出藩主木下家の菩提寺となり、初代藩主延俊侯が祖母朝日の方(北政所ねねの実母)の法名(康徳寺殿松屋妙貞大姉)をそのまま山号寺号にとりいれ、康徳山松屋寺と名付けました。
「絹本著色仏涅槃図」など数点の県・町指定文化財を所有、展示しています。
■松屋寺の蘇鉄(国指定天然記念物)
松屋寺本堂の前庭にある樹齢約650年、高さ6.4メートル、幹の周囲4.5メートルの大蘇鉄です。府内城にあったものを2代藩主俊治侯が移し植えたといわれています。江戸時代から日本一の蘇鉄として知られています。
もとは大分市の大友屋敷にあったものが府内城に移され、さらに明暦2年(1656年)2代藩主俊治侯が府内城受け取り役を務めたときに持ち帰り、松屋寺本堂前に植えられたといわれています。
国の天然記念物に指定されています。
■木下家墓所

慶長6年(1601年)より16代続いた日出藩主の墓地です。13代、16代藩主(神葬)をのぞく歴代藩主の墓碑があります。
また、初代藩主によって創設された当時、すでに亡くなっていた朝日の方(北政所ねねの実母)、正室加賀の方、両親家定侯夫妻の墓碑4基は創設と同時に立てられたものとおもわれます。
また、延俊、俊治に殉職した家臣の墓も含め、43基の角碑輪塔が立ち並んでいます。
的山荘
日出町を代表する城下かれい料理専門店です。皇室も何度も訪れ、全国的にも名前が知られています。
大正4年(1915年)に金山を経営していた成清博愛氏が別荘として建てたもので敷地面積は3670坪、建坪は247坪あり、その贅を尽くした建物と別府湾を池に高崎山を築山に見立てた優雅な庭園は訪れ る人を感嘆させます。
町有形文化財に指定されています。
日出の大サザンカ
現在は、日出中学校の校内に生育しており、樹齢400年以上になります。高さ7.6m、株元周囲は2.2mで花は、花弁先端部が紅色を帯びていて二重口紅という園芸品種と思われます。このことはその当時園芸品種のサザンカが存在していたことを物語る極めて価値の高いものだといわれています。
□日出町ではこのことから、サザンカを町花町木に定めています。県の天然記念物に指定されています。
帆足萬里墓
帆足萬里は江戸時代後期の碩学で幼少のころは脇蘭室に学び、その後も自ら研究を重ね、あらゆる分野に精通し、『窮理通』や『東潜夫論』などの貴重な書物を著し、多くの青年に学問を教え有為な人材を多数世に送り出しました。また、日出藩の家老として藩政改革に敏腕をふるいました。嘉永5年(1852年)に75歳で没し、藩主の命により立派な墓が建立されました。
墓碑はいたるところが欠けていますが萬里にあやかり学問の向上を願う人が持ち帰ったといわれています。
県史跡に指定されています。
魚見桜
旧庄屋屋敷にあり、樹齢450年以上になります。山桜の一種で彼岸の頃に咲くので彼岸桜ともいわれています。
むかし、漁師はこの桜の咲き具合で魚の様子を知り、魚の捕り方、網のおろし方を変えていたことから魚見桜と呼ばれています。毎年、3月に魚見桜まつりが盛大に行われています。
町天然記念物に指定されています。
今なお民家に残る、左官職人アート・・・
■鏝絵(こてえ)とは
鏝絵とは、漆喰の上に鏝で浮き彫りに描いた絵のことで、漆喰彫刻、左官絵、鏝掛け、蔵飾りなどとも呼ばれています。
厄除けや、家内安全、子孫繁栄の意味を込めて、「えびす」「大黒」「鶴」など縁起のよいデザインが多く見られます。
無名の明治職人たちのセンスと技を生かした鏝絵アートは今なお日出町内の民家に多く残り、人々に親しまれています。
■鏝絵(こてえ)の歴史

日出町の鏝絵は江戸時代日出藩主御用左官であった「青柳鯉市」及びその子「長市」によって広められました。
青柳鯉市は天保10年(1839年)左官職人、脇義市の五男として生まれた後、当時、日出藩で武家屋敷、藩校などの建設に関わる左官集団であった青柳家の養子となりました。
鯉市は江戸で修行中、そのとき流行だった鏝絵の技術を持ち帰り、明治維新後はその普及に努めたといわれています。
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