スマートフォン版を見る

人間魚雷「回天」大神訓練基地跡

回天実物大模型

歴史的背景と回天

 昭和16年(1941)12月8日、日本海軍は米海軍太平洋艦隊の基地であるハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃し、大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまりました。当初は攻勢に進んでいましたが、昭和17年(1942)6月、北太平洋ミッドウェー沖の日本海軍連合艦隊の敗北を転機に、物量・質とも日本軍を圧倒する米軍の反抗が本格化し、日本本土が攻撃にさらされるようになりました。

 日本海軍が劣勢に立たされるなか、甲標的搭乗員の黒木博司大尉(当時は中尉)と仁科関夫中尉(当時は小尉)は、兵器庫に何百本と眠っていた九三式魚雷を改造して自らが操縦して体当たりする魚雷を提唱しました。「必死」を前提とする兵器は採用できないと一度は却下されましたが、二人の熱意により脱出装置のないまま、正式な兵器として採用され、黒木大尉の発案で「天を回らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」と名づけられたのです。
 大神基地で運用された「回天一型改一」の断面図(クリックでPDF表示)

回天の搭乗員

 

戦後、大神地区に打ち上げられた回天の残骸
 訓練基地として山口県中部瀬戸内海を囲むように大津島、光、平生、そして大神基地が配置され、搭乗員が募集されました。

 ある航空隊での募集方法は紙片が渡され、希望する者は◎、どちらでも良い者は○、その他については無印で、5分以内に提出せよ、というものでした。他人と相談することは禁じられ、大半の者が◎を書き、「これに乗って祖国を救うしかない」と固く信じていたのです。

 「回天」は伊号型潜水艦の甲板に出撃の際搭載され、潜水艦から離脱できなかったり、エンジントラブルなどによって出撃できず、無念の帰還をした者もいました。

回天の戦歴

 

靖国神社遊就館に展示されている回天一型
 昭和19年(1944)11月8日、大津島から菊水隊の回天搭乗員12名が3隻の潜水艦に各4基搭載してウルシー、パラオへと出撃し、給油艦「ミシシネワ」を撃沈しました。終戦まで28回にわたり出撃しましたが、詳しい戦果の確認はできませんでした。

 この回天作戦での戦没者は、104名とされ、その他に 回天整備員、回天搭載潜水艦の乗組員など合計1073名にのぼりました。戦死した回天搭乗員の平均年齢は20.8歳であり、多くの若い命を失いました。

 「回天」を提唱した黒木大尉(殉職後少佐)は訓練中に殉職しましたが、事故を起こした艇内で遺書としてその状況を後の訓練や実戦に生かすために対策などを冷静に分析し記録していました。

 また、もう一人の提唱者、仁科中尉(戦死後少佐)はウルシー環礁出撃で戦死しており、出撃前に日記に「黒木少佐ヲ偲ブ」という一節を残しています。とくにこの二人は回天特攻の先頭に立ち、国土防衛を強く願う若者でした。

基地構築

 

基地本部庁舎と神殿(当時)
 大神訓練基地は、昭和16年(1941)から昭和17年(1942)にかけ建設予算が成立し、大型戦艦や空母が建造可能な「大神海軍工廠」の建設予定地 として、大神村真那井等の海岸部(現在の深江港周辺)に100ヘクタール以上の広大な土地が海軍により強制買収されました。

 昭和18年(1943)、戦況の悪化により建設は中止となり、当地建設予定の海軍工廠は、台湾の高雄に変更されました。

  昭和19年(1944)9月1日に山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島に第一特別基地隊として大津島回天基地が開設され、以後、光回天基地・平生回天基地 が開設されました。続いて「大神海軍工廠」建設予定地の一部が回天特攻の基地として転用され、同年秋より、牧の内一帯を中心に基地建設が着手され、兵員 や軍技術者のほか民間技師及び作業員、中学生、朝鮮人等多くの人々が徴用されました。

 昭和20年(1945)4月25日に突撃隊司令、山田盛重大佐以下兵員2,000名の構成による大神回天基地が開設されました。基地内施設として、回天神社、回天格納庫を含め舎屋51棟、魚雷調整場、変電所、浄水場施設等が整備されていました。

  回天大神訓練基地の全容

大神突撃隊

 

大神突撃隊
 昭和20年(1945)3月1日第二特攻戦隊が発足し、光突撃隊・大津島分遣隊・平生突撃隊とともに、基地内搭乗員数273名を数えた「大神突撃隊」が 4月25日開隊し、5月23日より別府湾を訓練海域とした訓練が始まりました。

 同年8月3日、大神訓練基地から唯一の出撃があり、8名の隊員及び整備員が、回天8基とともに、第8特攻戦隊第21突撃隊として、愛媛県宿毛湾麦が浦へ向け出航しました。

 8月12日、出撃待機命令を受けましたが、8月15日、 出撃しないまま終戦を迎えました。8月25日、大神突撃隊が解隊し、8月31日付けをもって基地は、米軍に引き渡され、その後、残された回天は海洋投棄されました。大神訓練基地での犠牲者は、終戦後基地内で自決した松尾秀輔小尉、1名です。

回天神社のその後と大神回天会の歩み

 


回天神社 厳しい訓練の日々を積み重ねてきた隊員たちは終戦後、その任務を解かれ、それぞれの郷里へと帰路につきました。隊員の精神的支柱であった基地本部内の「回天神社」は、残務処理で残った隊員たちによって住吉神社内に建てられたトタンぶきの社殿に遷されました。

 住吉神社の末社として登記された「回天神社」 は、大神突撃隊開隊日である4月25日を例祭の日と定め、以後、住吉神社宮司・氏子・総代によって手厚く祀られています。

 「回天神社」の 遷座は、終戦から解隊までの短く慌ただしい時期に、一部の兵士隊上層部によって決められたことから、多くの隊員はこのことを知りませんでした。解隊から長い年月を経てこれを知った元隊員たちは、浄財を集めて昭和50年に社殿を改築(平成13年現在の場所に移転改築)しました。これを契機に同年4月24日 大神回天会が発足し、3年毎に総会並びに大祭を開催することが決められたのです。
回天神社例大祭
 その後、大神回天会は昭和56年(1981)に回天神社社殿前に3分の1大の回天模型、平成14年(2001)に回天の母体である93式魚雷機関を奉納しました。また、回天作戦に散った1073柱の戦没者の霊を合祀したことで、回天神社は全国の回天関係者の心の支えとなりました。

 大神回天会発足の背景には、かつて隊員たちの心を支えた回天神社があったからです。しかし、元隊員で構成する大神回天会は、時間の経過とともに会員が少なくなり、平成26年(2014)からは地元の人々が会を引き継ぎ、回天神社の例祭や例大祭を執り行っていくことになりました。
回天実物大模型設置工事の様子

 

 平成26年(2014)といえば、回天の実物大模型が魚雷調整プールの横に設置された年でもあります。「回天実物大模型」は、この地に回天訓練基地が あったことを後世に伝えるための象徴的なモニュメントです。

 翌年の平成27年(2015)には、「回天実物大模型」周辺の公園整備が完了し、駐車場、公衆トイレ、四阿(あずまや)などを備えた「回天大神訓練基地記念公園」が竣工しました。

 

歴史に平和を学ぶ

 

回天大神訓練基地記念公園
 かつて日本が国の存亡を賭け、激しい戦火の中にあった時代から半世紀以上の時が流れ、国民の多くは戦争を知りません。戦火を生き抜き、その過酷な日々を語り継いできた人々は少なくなり、戦争が彼らにもたらした記憶のともしびは、大地に深く刻まれた戦火の爪痕「戦争遺跡」へ受け継がれようとしています。

  私たちの暮らしは、過去の戦争によって犠牲となった多くの人々の歴史の上に成り立っていることを、決して忘れてはなりません。再び戦争を繰り返すことのない、平和な時代の構築・実現に向けた大きな第一歩です。各地に残る戦争の記憶のともしびを、現代に生きる私たちが絶やすことなく受け継ぐことが、戦争のない新しい時代の創造に結びついていくのではないでしょうか。

施設情報


[場所]大分県速見郡日出町5673-55
[駐車場]記念公園…普通車6台、大型バス2台
     回天神社境内…数台(大型バス不可)
[お問合せ]日出町観光協会 ℡:0977-72-4255
 

 

関連情報

 
大神回天基地(※より詳細な情報が掲載されています)⇒外部サイト
 
『人間魚雷「回天」大神訓練基地』
※画像クリックでPDFダウンロード(3.58MB)
  • ひじナビ
  • おんせん県おおいた
  • 的山荘
  • 二階堂美術館
  • 大神ファーム
  • ハーモニーランド
  • 大神回天基地
  • 豊の国千年ロマン観光圏
  • オラショ巡礼の道
  • JAFナビ
このページの先頭へ